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『シアタープノンペン』から考えるクメール・ルージュ

2016/08/11

シアタープノンペン

こんにちは。

大野です。

夏ですね。とても蒸し暑いです。

さて、今回は前回に引き続きカンボジアにまつわる映画を見ました。

その名も『シアタープノンペン』

しかし、今回、前回と違うのはオールキャスト、カンボジア人。監督もカンボジア人ということで、完全にカンボジア発の作品ですね。

ではまず、あらすじから

主人公のソポンは現代の女子大生で、父の家族への高圧的な態度や厳しい環境に逃れるために非行に走っていた。そんな中で、いつも駐輪場として使用している古びた映画館で見つけたのは綺麗な女性が写ったとある映画のポスターだった。彼女はその映画ポスターに惹かれ、映画館の主人になんなのかと聞く。そして、その映画にはクメール・ルージュのせいで最後が撮れず、結末がないことを知る。そこで彼女は今から最後のシーンだけ撮影して、映画を完成させようとする。その最後のシーンを紡いでいく中で、彼女はクメール・ルージュのことを知っていくことになる。そして、そこに隠された本当の母や父の姿、さらに映画間の主人を暴いていく。すべてを知った彼女は、クメール・ルージュの痛みを癒す今にあう最後のシーンを描く。

と、このように現代の中のクメール・ルージュを描いた作品です。

私の感想は、俳優がクメール・ルージュの粛清の対象になったことはまず知りませんでした。政府にもクメール・ルージュの兵士が残っていたと

は聞いていたが、映画でその姿を見るとは思っていませんでした。まさにソポンの父は元クメール・ルージュの下等兵士であり、現代は軍部の大

佐でした。もちろん、当時クメール・ルージュ下での強制労働の中、生き残った人は大きな傷をもっているだろうけど、兵士としていた人も苦しみ

を背負って生きているのだなと感じました。そして、拷問を受けて、反乱分子として密告してしまった人も変わりません。不可抗力だからって割り

切れないのです。そんな簡単な話しではないこともわかります。だからこそ、この中で描かれたクメール・ルージュを体験した人々は全員話したが

りませんでした。そして、若者はあまりよく知りませんでした。これは今のカンボジアをよく映していると私は思います。これからのカンボジアはこの

負の歴史をどう伝えていくのでしょうか。私はクメール・ルージュが時間として過ぎてしまったことだからといって終わったとは思っていません。今も

歴史として、人々の記憶の中で生きています。そこにあります。経験した人の中ではクメール・ルージュは傷として癒えることはあっても、死ぬこと

はないでしょう。だからこそ、傷を癒すためにも語り継がなければいけないと思うし、同じようなことを繰り返さないためにもみんなで語り合うことが

必要なんだと思います。

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